古いアパート
延ばし延ばしにしていた家庭訪問にようやく出向いたのは木曜日のことだ。
もうすっかり暗くなった、随分と馴染んだ道を右折する時は、思ったよりも冷静だった。そして、見たくないものなのに、視線はそちらにばかり行ってしまう。暗がりで、三年前に四ヶ月弱暮らしたアパートはあるんだかないんだか分からないくらいにぼやけていた。もしかしたら、あの古いアパートは取り壊されてしまったのかもしれない。そう思いながら、左折して生徒の家へと向かう。
帰りは別の道を通る。そのことは、出かける前から決めていた。行きはあっち。帰りはこっち。けれども、あのアパートや、あの川や、あの煙草屋や、あの信号を意識したのはほんの少しの間だけ。それからは自傷行為に苦しむ生徒のことや、今日は随分と愛想の良かったそっくりな母親のことばかり考えていた。
信号待ちでふと思いついて、アームレストの中のMDをごちゃごちゃと漁った。その頃、泣きながら聞いたドリカムのMDはそこにちゃんとあって、それをかけてみる。
あの頃は毎日泣いて過ごしていた。言葉だけじゃなく本当に全てのものを失って、両親を泣かせたことが辛かった。自分が惨めで、いろんなことが怖かった。私は、仕事を休み、随分と痩せて、ひっそりと薬を飲んで眠るだけの生活をそこでしていた。あのアパートは、言わば、そんな私の象徴で、良くしてくれた大家さんには申し訳ないことだけれど、もう無くなってしまっていればいいと思っていた。
この辺りには出来ればもう来たくない。本当は「出来れば」なんかじゃなく。だから家庭訪問も躊躇っていた。
今の私はあの曲を聴いてももう泣くことはなかった。けれど、苦しいときに支えてくれたあの人のことを思い出して少し切なくなった。ミシミシと軋むドアを開けて、縺れるようにした初めてのキス。嬉しくてふらふらになったのを覚えている。そして彼は、ペンキを塗って綺麗にしたばかりの棚に肘をぶつけて壊したのだ。そんなことをお構いもせずに冷たい部屋でセックスをし、包んでもらった。
もっと聞いていたい、思い出したいと思ったけれど、寄道することもなく学校に戻り、次の日の準備をしている頃には、ご主人様のことを想う玩具に戻っていた。